今月末に友だちに引越しの予定があるらしかったけど、引越し業者が空いてなくてその友達は自分で引越しをすることにしたみたいだったから、その友だちの車の運転の練習がてらにドライブしにいった。
わりと長時間車の助手席に乗って話をしていたんだけど、友だちの話のほとんどが『引越ししたくないな』という話だったから、そんなに引越し嫌かなとか思った。
そう思った時にそう思った理由を考えてしまったんだけど、そもそも自分は小さい頃から転勤族だったから、親が家を買った中学生までは2年に1度は人間関係がリセットされていたし、人との関係性において継続するみたいな意識があまりなくいつか切れるまでの関係性みたいな認識があるなとか思った。
数年前にわりとふらふらしていた時は2〜3ヶ月おきくらいにはじめて行った地域で初対面の人たちと仕事をするみたいな感じで働いていて、その時に会った人にその話をしたら『すごいな』って言われたことあるんだけど、これって今思うと環境を変えることに対しての抵抗のなさに対して言われていた発言だったのかなとか思った。
土着するみたいな感覚がある人からするとその感覚がない人が不思議だったんだろうな。土着する感覚がない側からするとそう言われること自体が不思議だったんだけれども。
その友だちは国家公務員で2年おきに転勤する可能性が高いんだけど、話している時に『15分後に片づけなさいと言われることがわかっているのに、積み木で遊んでいるような感じだよ。マジでクソだな。』みたいなこと喋っていて、あーなるほどと思った。
自分はこの感覚がデフォルトだったから環境変わって人間関係もリセットされるのが嫌だなみたいな感覚が少ないんだけど、ずっと同じ地域で過ごした場合この感覚がデフォルトなのかとやっと気づいた。
人との関係性って植物に水をあげるみたいに育てていくものだと思うんだけど、リセットされるのがデフォルトの場合はどちらかというと有り合わせのもので料理を作りましたって感じになる。
人間関係がすぐ切れることは固定化した関係性に縛られないというメリットもあるし、そういうメリットも自分自身の価値観に影響しているんだろうなとか思った。
引越しが多かったことから発生した価値観含め、自分の思考の発祥地を考えることをわりとしてしまう。
友達の話に戻るけど、今は社会的にはまだ若いと言われる年代だから新しく関係性をつくるのはそこまで難しいことではないだろうけど、地方になるにつれて人間関係は固定化されていくだろうし、年を重ねるにつれて人間関係は固定化されていくだろうから、数十年後とか歳をとって地方に飛ばされた場合って大変だろうなとか思った。
友だちとばいばいして返ってから最近よく行く大宮のお店に行きたくなった。
最近、お金使い過ぎているから少しだけ行った。
指名している女の子がいるんだけど、指名被りでその女の子が抜けたタイミングで別の人が席についてくれたんだけど、血液型の話になった。
女性がいるお店に行くと体感3%くらいの割合で血液型の話になることがあるんだけど、血液型の話とか占いの話が個人的に一番興味が湧かない話だったりしてとてもつらいとか思ってしまった。『白い服を着ているんだ!明るい性格なんだね!私も白い服だから気が合う!』みたいな会話をずっとしているような気分になる。
こういう類の会話の比率が高い人の場合って内容がどうこうというよりは一緒に踊って仲よくするという行為の代用として言葉を使っているんだろうなという認識が最近あるんだけど、やっぱりこの類のコミュニケーションは苦手だなと思ったりするのはそもそも他人と仲よくすること自体にはあまり興味がないという内面が自分の中にあるのかなとか思ったりする。
『自慢話ばっかする人嫌いなんだよね』と自慢話ばかりする人が発言してしまっているようなメタ認知能力の低さってあると思うんだけど、こういうわかりやすい例とかではない場合も含めてこういった認知能力の差を相手との間に感じると話すのがけっこうつらいなと思ってしまうことがある。
けっこういろいろ考えてした発言なのにな....みたいな....
ことを思ったりしたけど、指名の女の子(※Twitterのフォロワーにいる)が戻ってきてあーよかったって思った。
異性の外見の好みってみんなあると思うけど、最近それと同等かそれ以上に内面的な好き嫌いがあるかもと思うようになった。
具体的に言うと人と会話する時って相手にどんな認知があるかと、相手の認知の中では相手は自分の認知をどんな認知だと思っているかと、相手が相手となる自分の認知をどんな認知があるかと思っているかみたいなこと考えて話すと思うんだけど、会話をしていてこれが手前で止まっているかのように感じることがあって、その能力差を感じる時に話していて一番もやもやしてきてつらくなってくるなとか思ったからこの能力だけは対等にある人が好きだなとか思った。